本屋のばあさんの平和な一日
世捨て人のばあさんが、さびれた裏通りでひっそりと営んでいる貸し本屋。 気紛れなお客様のお立ち寄りを、野に咲く花のよーにひそかに待っている。
4 四月十日余り以降・・・初夜より後(解説)
4.四月十日余り以降・・・初夜より後

恋の一夜の直後、宮からの文は、いわゆる「後朝歌(きぬぎぬのうた)」である。

古来、男女が共寝をするときは、お互いの衣(きぬ)を、一部、重ねて敷いて、その

上に寝るというので、重ねる衣のない「片敷き」は、虚しい独り寝を意味する。

また、愛を交し合った翌朝は、お互いの下着(衣と衣)を交換して別れるという風習

から、夜明け前に帰った男からいち早く昨夜の感想を書き送る歌を、このように呼

ぶのである。

この歌で、宮が、「恋といへば世の常のとや思ふらん」と言っているのは、恋多き

和泉式部への牽制であるだろうが、せっかく思いを遂げた翌朝に、何もこういう言い

方をしなくても良かろうに、と思わないでもない。自分の愛は、かつての、または

今現在の式部の恋人の誰よりも深いのだ、ということを強調したいという宮の気持

ちは分かるが、何かにつけ、過去や現在の恋愛遍歴にかこつけられる和泉式部も

堪らないだろう。

宮は、少なくとも、式部と兄の関係、式部がどういう女であるかを承知の上で、

自分から言い寄ってきたのだから、この期に及んで、そこをちくちくやるのは、反則

ではないだろうか。若い宮の無邪気な嫉妬心と解釈すれば、可愛いと言って言えな

いこともないかもしれないが。

式部は年上の余裕で、さすがにヒステリックには返さない。それでも、やんわりと、

「世の常のことともさらに思ほえず」と、一応、否定はする。そのうえで、やはり「物

思ひ」を強調するのである。

一般的にいって、後朝歌、とくに、初夜明けの贈答歌において、女の「物思ひ」と

いうのは、さて、押し切られて体を許してしまったが、この男は果たして本当に

誠実なのか? これっきり自分を見捨てたりはしないだろうな? 操を捧げた価値

はある男だったのか? 今後も愛情を尽くしてくれるのだろうか? 顔や体を見ら

れ、することはしたはいいが、それで失望されたのではないか? この男が今夜か

らあと二夜続けて通ってくれば正式の結婚ということになるが、男にはそのつもり

があるのか? 餅の準備はしたほうが良かろうか、いや、無駄な準備で恥をかくの

もみっともない・・・だいたい、こんなところである。

だが、ここでの和泉式部の「物思ひ」は、もう少し色合いが複雑だ。一応、「心な

らずも」ということにしておいたほうがいいだろうが、死んだ恋人の同母の弟と通じて

しまったという不謹慎、きまり悪さ。故宮への申し訳の立たなさ。流されやすい

自分への自嘲と軽い自己嫌悪。

そんなところへ文使いの童が来て、今夜も宮のお越しがあるかと、ついした期待を

外され、意外にも素直に落胆する和泉式部の姿は少し微笑ましい。

だが、歌はちょっと懲りすぎた。「待たましもかばかりこそはあらましか」、この

反実仮想の上の句は、もって回った言い方で、いかにも素直でない、ひねくれた

印象を与える。言わんとすることは、あなたは今夜は来ないのね、がっかりだわ、

ということで、「き、来てくれなくても、ちっとも寂しくないんだからねっ!」という、

いわゆるツンデレでないところは可愛げがあるのだが、それならそれで、どうして

もっとストレートに、素直な言い方をしないか。この歌に対して、宮が「ひたぶるに

待つともいはばやすらはでゆくべきものを君が家路に」と返されるのは、これは

尤もな返歌である。

どうも、この二人は、最初から、お互いに素直に打ち解けあおうとしない。宮のほう

のこだわりは、和泉式部の多情の噂を警戒するものだし、式部のほうのこだわり

は、折からの「物思ひ」、すなわち、亡き弾正宮への気兼ねである。

女からの歌を御覧になった宮が、「げにいとほしうもとおぼせど」というのは、例の

三人称視点で、宮の心理に立ち入っているのだが、ここで自分への同情という、

自分に都合のいい解釈をあえて心理描写にしている点が面白い。

また、宮は正妻の藤原済時女(なりときのむすめ)とは冷え切った仲であるという

事情も、先々に、和泉式部が宮から、直接、聞いた内容を、ここで地の文として

客観描写したのであろうか。

宮の北の方が「夜ごとに出でんもあやしとおぼしめすべし」と思っているのは、

宮か、式部か。両方の解釈が成り立つが、ここは、夜ごとに「出でん」に尊敬語が

用いられていないので、宮の内心の描写と解釈しておこう。すると、宮はいくらか

恐妻家、ということになる。

さらに、兄宮が死ぬまで人に非難されたのも、この女が原因なのだと思うにつけ、

式部のもとへ足しげく通いたいという本心とは裏腹に、宮は自重なさっているの

だ、と、これまた自分への愛情をあくまでも前提とした事情の理解を示しておきな

がら、「ねんごろにはおぼされぬなめりかし」と、大して愛されてはいない自分、と

いうことを言い放ってしまうのも、屈折した心理である。

「おろかにやと思ふこそ苦しけれ」と、宮は、自分の不実を疑われることを懸念す

るも、式部の「なにかは」は、少し強がりの感がありながら、信用しています、と

返す返歌はいじらしい。だが、それも、兄宮の縁だから、と、ここでまた弾正宮を引

き合いに出す心理というのも、微妙である。

「慰めずは、つゆ」は、後撰集の「慰むる言の葉にだにかからずは今も消ぬべき

露の命を」によるらしい。お越しがないのなら、せめて慰めのお言葉だけでも、と

いうのであろう。いかにもか弱くしおらしい。

宮もいたく同情して、ぜひ行ってやりたいとお思いになるのだが、「うひうひしう

のみおぼされて」、数日、お越しのないまま過ぎてしまう。「うひうひし」は、まだ

慣れ親しまない間柄で遠慮がある、という意味であろうが、宮のこの足踏みは、

必要以上に和泉式部にのめりこまないための自制もあろうか。「軽々」なる帥の

宮にしては、念の入った牽制である。この下線部も、宮の心理にまで立ち入った

三人称視点の描写。



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【2008/01/29 14:24】 | 和泉式部考(評論) | トラックバック(0) | コメント(0) |
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